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コラム

 

野村忠央先生(文教大学教授)のコラムを掲載していきます。

第7回「数量詞の作用域のはなし」(2024年8月19日掲載)

第6回「不定詞標識toと法助動詞shouldの類似性」(2024年6月28日掲載)

第5回「長谷川欣佑先生の思い出」(2024年3月27日掲載)
第4回「言語学者の発音」(2024年3月11日掲載)
第3回「(to)不定詞、原形、語幹、語根」(2024年1月22日掲載)
第2回「ラズニックとチョムスキー」(2023年12月26日掲載)
第1回「Don't worry. I'm wearing!の笑いと英語の目的語の必要性」(2023年11月20日掲載)

 

篠﨑剛先生(昭和第一学園高等学校英語科教諭)のコラムはこちら(2024年7月2日更新)




第7回 数量詞の作用域のはなし

 もう四半世紀以上前の話になるが、神田外語大から東大助教授に異動されたばかりの渡辺明先生(1964-)が数年間だけTEC(東京言語研究所の理論言語学講座)の「生成文法特論II(上級)」を担当されたことがあった。筆者は渡辺先生のTECの授業にも出席していたのだが、最初の年(1998年)のトピックは数量詞、疑問詞のスコープ(作用域)の話であった。May (1977) のreviewから始まって、ミニマリスト・プログラム(極小主義)の数量詞分析まで有益な講義だったが、仕事帰りでよく居眠りしながら出席していた筆者は恥ずかしながら1年経っても数量詞分析がきちんと身に付かなかった。「調子が良い日じゃないと解釈が取れない」とか「『2人の男子学生が3人の女子学生がデートした』で、デートした人数は多い方がうれしいんじゃないか」みたいなどうでも良いことばかり記憶に残っている。
 そんな感じなので、今号は数量詞の最先端の分析ではなくて、筆者が抱く、数量詞の作用域の基礎についての素朴な疑問の話である。以下がイントロダクションの授業で出てくる有名な例である。

(1) Everyone loves someone.
a. みんなが好きな人が誰か一人いる(集合読み(collective reading))注1
  b. みんなそれぞれ自分の好きな人がいる(配分読み、バラバラ読み (distributive reading)、個別読み (individual reading))
(2) Someone loves everyone.
a. 誰か一人の人間が周りの全員を愛している(集合読み)
  b. みんなそれぞれ自分の好きな人がいる(配分読み)(=(1b) と同じ解釈)

(1a, b), (2a) はすぐに納得ができるが、(2b) の解釈があることが我々日本人には不思議な気がする。しかし、先行研究を総合すると、日本語より英語の方が解釈が容易にできるのだと思う。これらの複数の解釈がMay (1977) の数量詞繰り上げ(Quantifier Raising)、後の極小主義でのLF移動の仮定の元になっている訳だが、「(2b) の解釈は本当にデフォルトで存在するのかな?」と思う。すなわち、英語語法文法研究者として言うと、Williams (1988) の、(2b) の解釈を有するのはSomeone loves éveryone.のように強勢を置いている時である、という主張が正しいと考える。しかし、英語母語話者の数量詞研究者は無標の強勢、イントネーションでも両方の解釈があると主張するのではないかと思うのだが(いつぞやデ・シェン先生(Brent de Chene, 1948-)にも確認したことがある)、そういう人たちは何度も解釈をやっているうちにもはや強勢を置いていることすら忘れ、無意識になってしまったのではないかと思うのである。
 そして、ここで重要な分かれ道だと思うのだが、「強勢(stress)を置くことはsyntaxを変える」と考えるのかどうかということである。筆者は強勢はsyntaxを変えると思うが、Mori (1995) は長谷川欣佑先生(1935-2023)と今井邦彦先生(1934-)の異なる2つの興味深い立場を紹介している。

(3) In addition, Mr. Kinsuke Hasegawa (1994, TEC lecture), who claims the existence of the autonomy of syntax and proposes structural meanings, and who disagrees with the existence of LF, argues that the claim that (3) [=Someone loves everyone] is ambiguous is wrong, and that structurally higher quantifier has wide scope, referring to Williams’ argument that everyone needs to be assigned heavy stress to have wide scope. (Mori 1995: 236)注2
(4) However, Professor Kunihiko Imai (1994, classroom lecture) tells us that (3)[=Someone loves everyone] is ambiguous, and points out many generative syntacticians’ wrong idea of stress. He tells us that if the sentence has another reading by stressing, it is ambiguous and that stress is used for disambiguation. (ibid.: 238)注3

(4) は要するに、強勢を置いて別の解釈が可能な場合、元の文にそもそも2通りの読みが可能だったのであって、強勢を置くことによって、曖昧性が解消されたのだという立場である。この問題は言語理論を構築する上で今後も考えていくべき重要な問題であろう。
 最後に、日本語の数量詞の作用域の話をして閉じたい。(1-2) に相当する日本語は (5-6) である。注4 (5a, b), (6a, b) の解釈は (1a, b), (2a, b) と同じである。

(5) 誰もが誰かを愛している。
a. みんなが好きな人が誰か一人いる(集合読み)
  b. みんなそれぞれ自分の好きな人がいる(配分読み)
(6) 誰かが誰もを愛している。
a. 誰か一人の人間が周りの全員を愛している(集合読み)
  b. みんなそれぞれ自分の好きな人がいる(配分読み)(=(5b) と同じ解釈)

ここでKuno and Takami (2002) を含め、何人かの研究者は (6b) の解釈が可能だと主張しているのだが、読者諸賢は取れるだろうか。久野タ先生(1933-)と高見健一先生(1952-2022)はご両かたがその解釈が取れるということなんだろうが、筆者は何度読んでもダメである。注5 Kuno and Takamiのエキスパートシステムだと、(7) に示すように、3点:2点という投票点だから曖昧性が出るという予測になる。(しかし、筆者は (6b) の解釈が難しいのではなく、出ない。通説でも一応、そう考えられているはずである。)

(7)  誰かが 誰もを

基準値注6 1点 基準値 1点
主語の数量詞 1点   普遍数量詞 1点
左端の数量詞 1点
計3点 計2点

(Kuno and Takami 2002: 220参照)注7

なお、(6) にかき混ぜ(scrambling)の操作を加え、(8) のように「誰もを」文頭に持っていったら確かに (6b) の解釈が取れると初めて学んだ時はなるほどと思った。

(8)  誰もを誰かが愛している

これを最初に主張したのはKuroda (1971) だと思うが、黒田成幸先生(1934-2009)や久野先生の数々の直観は後の時代から学説史的に振り返ってみても凄いなと思う。


    

(注1)(1a) の具体例として歌手の美空ひばり(1937-1989)、俳優の石原裕次郎(1934-1987)、(2a) の具体例としてマザー・テレサ(Mother Teres, 1910-1997)が思い浮かぶ筆者はやはり昭和の人間なんだと思う。

(注2)長谷川 (2003) は (3) と同様の見解を述べている。

(i) 対比強勢を持つwh句は、GAoA[=一般A-over-A原則、通説の局所性移動の条件とほぼ同義]から除外される。 (長谷川 2003: 255)

Lasnik and Saito (1992) が挙げる有名な例である (iia, b) について、(iia) はGAoAの予測通りだが、2つのwhoをペアにして答える場合には (iib) も可能であるというLasnik and Saitoの主張に対して、長谷川は (iib) が可能な場合は (iii) の ように2つのwhoに対照強勢(contrastive stress)があることに注目すべきだ(すなわち、GAoAの原則から外れる)と述べている。

(ii) a. Who wonders who bought what?
b. Who wonders what who bought? (Lasnik and Saito 1992: 118)
(iii) WHO wonders what WHO bought?(対照強勢を大文字で表しておく、それ以外の単語のwonders, what, boughtは2次強勢)

(注3)(4) の立場はChomsky (2004) の“BEA(=Beyond Explanatory Adequacy)”の記述に近いのかもしれない。当時のChomskyはEPP素性に加え、連続循環移動を駆動するOCC(=occurrence)素性というものを仮定していた。

(i) Optimally, OCC should be available only when necessary: that is, when it is contributed to an outcome and SEM that is not otherwise expressive, the basic Fox-Reinhart intuition about optionality. (Chomsky 2004: 10)

(注4)「誰も」が不自然だと感じる人は「みんな」や「どの人」で置き換えても良いと思われる。なお、Mori (1995) は論文を執筆する際、言語学者の長嶋善郎先生(1940-2011)に日本語の数量詞についての見解を伺ったところ、「誰もを」という日本語は不自然で、「誰をも」と言うんじゃないですかと言われたということである。

(注5)なお、斎藤衛先生(1953-)は明晰な発表をされる方だが、数量詞の研究発表をされる時はたくさんの例文が出てきて、「〜は良いですね、〜はダメですね、〜はちょっと悪いですね」などと流れるようにコメントされて発表が進んでいく。しかし、筆者は解釈で立ち止まっているうちに、議論に置いていかれるということが何度もあった。
 余談だが、生成文法を習い始めて、Lasnik and Saito (1992) のMove αやHoji (1985) のlarge-scale pied-pipingを学んだ時、サイトーやホージという外国人研究者がいるのかと思っていた。大学院生になって初めて斎藤衛先生や傍士元先生(1952-)という日本人研究者なのだと知った。
 開拓社の「最新英語学・言語学シリーズ」のパンフレットを見ると、第1巻が斎藤先生の『生成統語論の成果と課題』が予定されている。刊行を期待したいと思う。

(注6)なお、Kuno (1991) の時にはBaseline(基準点)という項目はなかったことは注意すべきだと思われる。

(注7)高見先生の追悼文 (野村 2023) でも記したことだが、Aoun and Li (1993, 2000) を丁寧に読み解いて数量詞作用域の生成文法的説明の問題点を事細かに指摘しているKuno and Takami (2002) は労作だと思う。Chomsky (1986: 43) は「下接の条件」(subjacency condition)の説明で人間言語にあるのは計数器(counter)ではなく隣接性(adjacency)という概念なのだという趣旨のことを述べているが、仮に久野・高見の点数制を用いた機能論的説明(例:視点、再帰代名詞、数量詞の作用域、被害受身などの分析)に同意しても、しなくても、彼らの研究は「反例の重要性」を示していると思われる(外池 (2002) の「反例の推奨」の言及、野村 (2013: 81、注32) なども参照のこと)。


参考文献

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Aoun, Joseph and Yen-hui Audrey Li (2000) “Scope, Structure, and Expert System: A Reply to Kuno et al.” Language 76: 133-155.

Chomsky, Noam (1986) Barriers. Cambridge, MA.: MIT Press. 外池滋生・大石正幸監訳 (1994)『障壁理論』東京:研究社.

Chomsky, Noam (2004) “Beyond Explanatory Adequacy.” In Adriana Belletti (ed.), Structures and Beyond: The Cartography of Syntactic Structures 3, 104-131. Oxford: Oxford University Press.

長谷川欣佑 (2003)『生成文法の方法―英語統語論のしくみ』東京:研究社.

Hoji, Hajime (1985) Logical Form Constraints and Configurational Structures in Japanese. Doctoral dissertation, University of Washington.

Kuno, Susumu (1991) “Remarks on Quantifier Scope.” In Heizo Nakajima (ed.) Current English Linguistics in Japan, 261-287. Berlin: Mouton de Gruyter.

Kuno, Susumu and Ken-ichi Takami (2002) Quantifier Scope. Tokyo: Kurosio.

Kuroda, Sige-Yuki (1969) “Remarks on the Notion of Subject with Reference to Words like Also, Even or Only, Part II. Annual Bulletin 4, 127-152. Logopedics and Phoniatrics Institute, University of Tokyo. Also in Papers in Japanese Linguistics 11: 157-202.

Lasnik, Howard and Mamoru Saito (1992) Move α: Conditions on Its Application and Output. Cambridge, MA.: MIT Press.

May, Robert (1977) The Grammar of Quantification. Doctoral dissertation, MIT.

Mori, Miyuki (1995) “On Psych-Verbs.” MA Thesis, Gakushuin University.

野村忠央 (2013)「日本の英語学界―現状、課題、未来」『日本英語英文学』23号、55-85.

野村忠央 (2023)【追悼文】「高見先生との四半世紀の思い出」『学習院大学英文学会誌 高見健一教授 荒木純子教授 追悼号 2022』18-21.
https://researchmap.jp/read0060497/misc/41818539に再録

斎藤 衛(準備中)『生成統語論の成果と課題』(最新英語学・言語学シリーズ1)東京:開拓社.

外池滋生(2003)「係助詞に関するいくつかの推測—文中詞と文末詞のあいだで—」KLS 23.関西言語学会.

Williams, Edwin (1988) “Is LF Distinct from S-Structure? A Reply to May.” Linguistic Inquiry 16: 247-289.

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第6回 不定詞標識toと法助動詞shouldの類似性

 昨年2023年10月、慫慂で英語語法文法学会第31回大会シンポジウム「現代英語に見る歴史の痕跡」を開催させて頂いた。この数年、忙しさの故に日本英語学会、日本英文学会、近代英語協会等の慫慂を(論文も発表も)断り続けてきたのだが、今回はお断りするには忍びない義理があり、お引き受け申し上げた。シンポの場合、身内の仲間を講師にすることも散見されると思うが、今回は筆者がシンポ内容に相応しいベテランの講師の先生方にきちんと打診して、招聘した。すなわち、村上まどか先生(実践女子大学)、家口美智子先生(金沢大学)、保坂道雄先生(日本大学、招待講師)のお三方である。我々4人、公私共に様々な事情や多忙を抱えており、準備までの2年間、様々な困難の中、大会運営委員会や事務局の先生方にもご足労、ご迷惑をお掛けしたけれども(改めてお詫びと感謝を申し上げる)、久し振りの対面開催の中、タイムテーブルも守って、盛会裡のうちにシンポを終えることができたことは幸いであった。
 それで本題なのだが、フロアからの質疑応答の中で顧問の八木克正先生(1944-)注1 から村上講師に重要なご質問があった。「ご発表の中で命令文や仮定法現在節について『定形性が高い、低い』と言われていたが、そもそも『定形性』をどういう定義で使われているのか」という趣旨のご質問をされたと思う。その回答については当日の村上先生のご回答に譲るとして、注2 筆者もその後の質疑応答で補足のコメントをしたのだが、今号はその補足に関連して「不定詞標識toと法助動詞shouldの類似性」について記したい。
 筆者は野村 (2001、2002)、Nomura (2006) を含め、「不定詞標識toは法助動詞句Mod(al)Pの主要部に基底生成する、すなわち不定詞標識toの統語範疇は法助動詞である」と主張してきた。注3 通説ではTP(時制句)の主要部にtoが基底再生するとされるが(Chomsky (1981: 18-19) はInfl(屈折要素)にtoが含まれると示唆している)、平易な言い方をすると、1970年代の句構造規則で言うところの、

(1) a. S→NP Aux VP
b. Aux→Tns (Aux)

において、toは (1b) のTns(時制)ではなく、Aux(助動詞)の方だということを意味する(仮定法現在の統語範疇も同様である)。それを踏まえた上で、英語の法助動詞にはwill/would, shall/should, can/could, may/might, must, dare, need, ought toのおおよそ12種類があるが、その中でもshouldがtoに一番近いと考えられるというのが今号のコラムの主張である。
 まず第1に、両者の分布やVP削除の類似性の例を挙げる際、しばしばshouldが使用されることは注目すべきである((2-3) 参照)。また、疑問不定詞節、不定詞関係節(=不定詞の形容詞的用法)の定形節への書き換えも原則、shouldが用いられる((4-5) 参照)。注4

(2) a. It’s vital [that John should show an interest]
b. It’s vital [for John to show an interest]
(3) a. I don’t want to go to the dentist’s, but I know I should go to the dentist’s
b. I don’t want to go to the dentist’s, but I just don’t want to go to the dentist’s
  c. * I don’t want to go to the dentist’s, but I just don’t want to go to the dentist’s

((2-3): Radford 20162: 84)

(4) a. John doesn’t know {what to do/where to go/which train to take}.
b. John doesn’t know {what he should do/where he should go/which train he should take}.
(5) a. I have a lot of homework [to do].
b. I have a lot of homework [(which) I should do].

 第2に、筆者のシンポジウムのテーマとも関係するが(野村 2023b参照)、「文法化」(grammaticalization)の要因の一つとして「漂白化」(bleaching)が挙げられる。この点、shouldはmust, ought to, have to, needなどよりも「弱い義務」を表し(例えば、You should see that movie!などは「義務」というより「あの映画、観た方がいいよ」という「助言」である)、以下の諸例に至ってはshouldは完全に文法化しており、「義務・当為」の意味は全くない(上述 (2a) も同様)。

(6) a. I demand that John should leave immediately.(仮定法代用、イギリス英語)
b. Should you have any questions, please free to ask.(未来の可能性が低い仮定)
(7)  Let us emphasize, lest he should forget, that this is a very important thing.
(今は文語調でやや古風) (綿貫・ピーターセン 2006: 246)

 第3に、shouldは普通に考えれば定形文(finite clause)であるが、wh句の抜き出しの振る舞いからは不定詞節つまり非定形節(non-finite clause)に近い。例えば、前号のコラムで紹介した長谷川理論では、下記 (8a, b) の文法性の差異は時制文条件(Tensed-S Condition: TSC)が重要に働く(伝統的な「島の制約」理論においてはどちらも「複合名詞句制約」(CNPC)違反で非文を予測することに注意)。注5

(8) a. * Which girl did John acknowledge [NP the fact [S' that he had visited   ]]?
b. Which race did John see [NP a chance [S' for us to win   ]]?

(長谷川 2003: 183, 186参照)

しかし、2001年11月の日本英語学会第19回大会で ”Phase and Cyclicity”(司会:池内正幸、講師:高橋大厚、斎藤衛、長谷川欣佑、討論者:外池滋生)という興味深いシンポジウムがあったのだが、注6 下記、Hasegawa (2001) の (9a, b) の「wh島の制約」の文法性の差異に対して((9a) は複雑度1でギリギリOK、(8b) は複雑度2でout)、Tonoike (2001) は (10) が定形文にもかかわらず文法的だというデータを挙げていた。

(9) a. ? Which books did he want to know where to put
b. * Which books did he want to know where Mary put (Hasegawa 2001: 136)
(10) Which books did he want to know where Mary should put? (Tonoike 2001: 3)

後日の外池滋生先生(1947-)の話によると、長谷川欣佑先生(1935-2023)は質疑応答で「チョムスキーも定形文で抜き出しがOKな文を挙げているのだが、そういう英文にはいつもshouldがあることが気になっていた」という趣旨のことを言われていたとのことだった。注7 筆者の考えでは「shouldは不定詞のtoに近い」ということである((10) のshouldは通例、3人称・単数・直説法・現在形の定形とみなされるし、主語は主格が現れていることに注意)。
 結論としては、Nomura (2006) の注で以下の図を挙げたのだが、shouldもその中に入るはずだということである。

(11) “More” Tensed
定形文  主格  屈折する  時制文
were仮定法  主格  屈折アリ  時制文
仮定法現在  主格  屈折ナシ  時制文注8
バルカン諸語仮定法  PRO  屈折アリ  非時制文
ポルトガル語不定詞  主格  屈折アリ  非時制文
不定詞  PRO、対格  屈折ナシ  非時制文
“Less” Tensed

(Nomura (2006: 234, fn. 5) の図を日本語にしたもの)

 最後に、日本語にもshouldに相当する、あるいは近いものがあるかと言うと、筆者は古文の助動詞「む」、現代日本語の助動詞「う」が近いと考えるが((12) 参照)、それについてはまた稿を改めたい。注9

(12) a. 明日、君が行こが行くまいが、結果に変わりはないよ。
b. 総理大臣ともあろ人が…
  c. 御霊の安らかならことを
  d. 思は子を法師になしたらこそ、心苦しけれ(『枕草子』七段)
(いとしいと思う子があったとして、その子をもし出家させたなら、それは痛々しいことだ)

(注1)八木先生は英語語法文法研究、フレイズオロジー(phraseology)研究で著名な方だが、英語参考書に残っている、現代英語ではもはや使われていない英語についての喚起(八木 2007など)、及び関連して斎藤秀三郎(1866-1929)についての一連の研究(八木 2016)も英語学徒が知っておくべき大事な研究だと思う。八木 (2023) も併せて参照のこと。

(注2)筆者の定形性(finiteness)の解説としては野村 (2020) を参照のこと。

(注3)法助動詞句の措定についてはEgashira (2016)、外池 (2021) のMPなども参照のこと。また、Radford (20162) はAuxP(助動詞句)を措定しているが、Nomura (2006) のModalPと実質的に同じ効果を生むことを法助動詞と否定の作用域の相互作用から議論している。

(注4)数少ない例外は以下である。(ia) のhow to doは (ib) に示す通り、canで書き換えられる。また、(iia) は主語が先行詞の不定詞関係節だが、法的解釈の有無ということがしばしば問題になる(Saizen 2022など参照)。しかし、筆者は (iia) のto landは確かに (iib) のthat landedに書き換え可能だが、本来の書き換えはthat was to land(月面着陸が予期されていた)の如きものであって(過去時から見た非現実(irrealis))、それが示す実際の事実を鑑みるとthat landedにパラフレイズできるというのが正しい捉え方だと思う。つまり、法的解釈の定義にもよるのだが、(ia) も (iia) も法的解釈を有するということである。

(i) a. I don’t know how to get there?
b. I don’t know how I can get there?
(ii) a. Who was the first human in the world [to land on the moon]?
b. Who was the first human in the world [that landed on the moon]?

(注5)TSCについては、野村 (2023a) の下記の記述も参照のこと。

(i) 私見ではMP[=ミニマリスト・プログラム]においても時制文条件の何らかの定式化が必要で、例えば、定形節・非定形節の位相形成の有無に還元する可能性などが考えられる。
(野村 2023a: 148)

(注6)この時のシンポ内容は後年『英語青年』2002年4月号(148巻5号:266-287)において「フェイズと極小主義理論」(執筆者:池内正幸、高橋大厚、斎藤衛、外池滋生、長谷川欣佑)という特集が組まれた。

(注7)このシンポに参加したのに「伝聞」になっている理由は、仮定法研究者の筆者がシンポと同時刻開催の村上 (2001) の発表を見たかったがため、シンポの最後を中座したからである。
 通説ではV-to-I移動の有無は屈折語尾が形態論的に豊富(rich)であることに還元されるとしばしば主張されるが(Chomsky (1995) の移動を駆動する「強い、弱い」(strong, weak)という概念もこれに関連している)、村上はヨーロッパ諸言語を観察すると、V移動が起こるかどうかの決め手は法(Mood)の形態の有無だと主張している。

(注8)仮定法現在節と不定詞節の類似性は数量詞の作用域の解釈にも見られる。例えば、(i) の仮定法現在節は定形文とされるが、(ia) と (ib) の両方の解釈が可能である。

(i) We require that our students read only Aspects.
a. 我々は学生たちがAspects以外の本を読まないことを求める(require>only)
  b. 我々が学生たちに読むことを求めるのはAspectsだけである(only>require)
   
(外池 2019: 135参照、cf. Kayne 1998)

 しかし、そのような節を超えた複文内で両方の数量詞解釈が許されるのは (iia, b) に示される通り、不定詞節の振る舞いである。つまり、この点、(i) の仮定法現在節は定形節ではなく不定詞節(非定形節)に近いということである。

(ii) I will force you to marry no one.
a. お前に誰とも結婚させないことを強要する(force>no one)
  b. お前を無理やり結婚させるつもりの相手などいない(no one>force)
    (Klima 1964: 285、日本語訳は外池 2019: 135のもの)

(注9)本稿とは異なる視点に基づくが、尾上 (2001) はウ・ヨウ、動詞終止形の用法、古代日本語のムの叙法論的性格を詳細に論じている。


参考文献

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Egashira, Hiroki (2016) On Extraction from Subjects: An Excorporation Account. Tokyo: Kaitakusha.

Hasegawa, Kinsuke (2001) “Feature Checking and Wh-movement.” Conference Handbook 19: 134-136. English Linguistic Society of Japan.

長谷川欣佑 (2003)『生成文法の方法―英語統語論のしくみ』東京:研究社.

保坂道雄 (2023)「BE動詞に刻まれた言語進化の痕跡」『英語語法文法学会第31回大会予稿集』81-88.

Kayne, Richard S. (1998) “Overt versus Covert Movement.” Syntax 1: 128-191. Also in Kayne (2000), 223-281.

Kayne, Richard S. (2000) Parameters and Universal. Oxford: Oxford University Press.

Klima, Edward S. (1964) “Negation in English.” In Jerry A. Fodor and Jerrold J. Katz (eds.) The Structure of Language: Readings in the Philosophy of Language, 246-323. Englewood Cliffs: Prentice-Hall.

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Radford, Andrew (20162) Analysing English Sentences. Cambridge: Cambridge University Press. 金子義明・島 越郎監訳 (2020)『英語構文を分析する(上)・(下)』東京:開拓社.

Saizen, Akira (2022) The Structure of English Non-finite Relatives. Doctoral dissertation, Aoyama Gakuin University.

Tonoike, Shigeo (2001) “Phase and Cyclicity.” (Comments on Papers by Daiko Takahashi, Mamoru Saito, and Kinsuke Hasegawa), Paper presented at the symposium, “Phase and Cyclicity,” 19th Conference of the English Linguistic Society in Japan.

外池滋生 (2019)『ミニマリスト日英語比較統語論』東京:開拓社.

外池滋生 (2021)「Part A: 英文法 教授用資料」野村忠央・菅野 悟・野村美由紀・外池滋生『[改訂新版]英文法の総復習とワンクラス上の英作文』1-97. 東京:DTP出版.

綿貫 陽・マーク・ピーターセン (2006)『表現のための実践ロイヤル英文法』東京:旺文社.

八木克正 (2007)『世界に通用しない英語―あなたの教室英語、大丈夫?』東京:開拓社.

八木克正 (2016)『斎藤さんの英和中辞典―響きあう日本語と英語を求めて』東京:岩波書店.

八木克正 (2023)「実証的英語研究の一方法」『英語語法文法研究』第30号、22-38.

家口美智子 (2023)「歴史的変遷からみた現代英語における文法的主語の頻度」『英語語法文法学会第31回大会予稿集』74-80.

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第5回 長谷川欣佑先生の思い出

 自分は中堅世代の研究者、教員だと思っているが、昨年は夫婦共に喪中で、よって、年賀状も来なかったのだが、受け取った喪中葉書の数もこれまでで一番多かった。自分もそういう年齢になったんだと実感した一年であった。親族だけでなく恩師の訃報も続いており、2022年4月に高見健一先生(1952-2022)が、2023年1月に岸田緑渓先生(1945-2023)が、2023年3月に長谷川欣佑先生(1935-2023)が亡くなられた。
 高見先生の追悼文は『学習院英文学会誌』に記したので(野村 2023a参照)、今号は3月31日で亡くなられて一年となる元東京大学名誉教授・元獨協大学名誉教授長谷川欣佑先生の(追悼文というよりは)思い出を少し記したい。なお、長谷川先生の追悼文はTEC(東京言語研究所)のホームページに大津由紀雄先生(1948-)と池上嘉彦先生(1934-)が書かれている。また、昨年11月の日本英語学会評議員会で、渡辺明先生(1964-)がEnglish LinguisticsにObituaryを書かれると報告があった。
 さておき、私は東大や獨協大の出身ではないので先生の直弟子ではないが、私も家内(野村美由紀)も大きな影響を受けた。障壁理論を今井邦彦先生(1934-)に、最新の生成文法理論を外池滋生先生(1947-)に、そして伝統的な生成文法理論に立脚しつつ、独自の理論を展開されていた長谷川先生に、それぞれ習ったことにより、生成文法理論を客観化、相対化して見ることができたと思う。注1 「長谷川理論」の集大成は長谷川 (2003、2014)、最も重要なキーワードは「一般A-over-A原則」と「複雑度の理論」だと思うが、詳細を記す余裕はないので、それらについては野村 (2023b) を参照されたい。注2 長谷川理論に対する簡潔な評価としては中島 (1990) が参考になる。注3

(1)『英語青年』に掲載された「Generalized A-over-A principle」(1974[a]) と「変形適用における複雑度」(1974[b]) は、その後チョムスキーが提案した下接条件やバリア理論と相通じるところがあり、この時期に英文で発表していたならば国際的な評価を得られたものと惜しまれる。(中島 1990: 61)

 ここで先生の要約力も感じる、TECの授業で伺った名言をいくつか(カッコ内は野村の補足)。

(2)a.Emonds (1970) の「構造保持制約」は要するにroot文(根文=主節)ではいろいろな操作をやってもいいが、従属節ではいろいろいじってはいけないということ。
b.Pollock (1989) は着地点としてのAgr節点を認めるべきだという副詞の議論を複雑にしているが、その根拠となる英語とフランス語の副詞のデータはごくわずかなものである。それらもまた別の説明が可能である(長谷川 (2003:第9章) 参照)。
c.Chomsky (1986) のBarriersは定義の連続で議論も複雑で読みづらいが、言いたいことはシンプル。「補部からの抜き出しはOKだが、付加部からの抜き出しはoutである」ことを定式化しようとしたものである。
d.Barriersは驚くべき内部矛盾を抱えた理論である。一旦、「VP付加」(VP-Adjunction)なんて操作を認めてしまったら、barrier(障壁)なんか1個もなくなっちゃって、みんなOKになってしまう(長谷川 1986参照)。
e.心理動詞の分析とか(cf. Pesetsky 1994)、何でもSyntaxでやろうとするのは誤り。意味論との分業を考えるべき。意味論、音韻論との適切な分業が重要(長谷川 (2003:第II部特論) のallege類動詞の分析、「that痕跡効果」の分析など参照)。
f.McCawley (1999) のThe Syntactic Phenomenaはぼくと分析は違うけど、統語テストの章など、一度は読むべき。グルメ。
g.feature movement(素性移動=非顕在的移動)なんてない。「島の制約」はovert movement(顕在的移動)だけに掛かるものである(長谷川 (2014:第4章) など参照)。
h.MP(ミニマリスト・プログラム)は言語固有の原理をなくそうとしてしまっている。何でも理論が進むと先鋭的になってしまう。『ゴドーを待ちながら』(1952) は結局、ゴドーが出てこない。『4分33秒』(1952) はピアノを弾かない。

 先生は以前、ご自身の理論のことを「新標準理論」と呼ばれていたが(長谷川 1983参照)、チョムスキーの通説を批判した「痕跡」、「統率範疇」、「節点としてのAgr(一致要素)」などの概念はその後、廃止された(「素性移動」も一度はチョムスキーも廃止したと思う)。また、先生は長年、長距離wh移動は各駅停車の連続循環的移動(successive cyclic movement)ではなく、一挙に移動する急行の移動だと主張されてきたが(長谷川 (2014:第4章) など参照)、最近のChomsky (2023) の「ボックス理論」(Box Theory)も連続循環的移動を除去しようとしている(その理論の可否は慎重に見定めるべきである)。
 最後に、私は1999年に獨協大学の大学院を受験したのが、その時の思い出を記した、公刊されていないエッセイの一部を再録して今号のコラムを閉じたい。元はワープロ文書だったのだが、昨年4月に長谷川宏先生にお送りする際に古いファイルから探し出した。文中の神尾先生とは「情報の縄張り理論」で著名な神尾昭雄先生(1942-2002)のことである。私は母校の青学大学院に進んだので獨協大学院には進学しなかったが、野村 (2023b) はこの時の最後の遠い恩返しの気持ちで執筆したものであった。(長谷川 (2014) のタイトル通り)経験事実に基づいた言語理論を大切にした長谷川欣佑先生のご冥福をお祈りしたい。



(前略)そして2月下旬に青山の再度の入試を終え、合格発表を見れないまま、3月頭の獨協を受験しなければならなかった。願書に同封された入試資料を見ると、青山同様、英語学専攻の毎年の合格者はほぼ2〜3人でこちらもきつい感じだった。
 試験当日、筆記試験が全部終了した後、面接があった。長谷川先生はもうその時のことを覚えておられないと思うが、こちらとしてはコメントの的確さに正直びっくりした。大学ノートにびっしりと書かれてあって、「それを私にください!」と言いたかった。
 最初の年の青山の入試では、上にも記した通り、「形式上の」注意がとても多かった(自分が悪い)。もちろん、他大受験の際はそういうミスは修正して提出したけれども、「内容を大幅に変えるのはフェアじゃない」という馬鹿正直な気持ちがあって、極端なreviseはしなかった。
 しかし、長谷川先生のコメントは内容に関することばかりで、褒めて下さるにしても、問題点を指摘して下さるにしても、非常にcrucialなことばかりだった。「どうして他人の論文の内容をここまで理解できるのだろう?」と思ったものだ。(もっとも、あのチョムスキーの難解な論文を40年以上前から今日までずっと独力で理解し、反論し続けてきた東大の長谷川欣佑なんだから、考えてみれば当たり前のことなんだけど…。)

「えーと、君の論文について議論したいことはたくさんあるんだけど、全体として、非常にいい論文でした。日本は主流派の意見にすぐ流される人が多いんだけど、君は自分の意見をしっかり持って書いているところが良い。それから、最近の生成の人は伝統文法やイギリス学派のこと、勉強しない人が多いんだけど、君はよくやっているようでその点も立派だと思います。」

良く言われたことばかり書いて嫌味に聞こえては嫌なので、指摘された問題点で覚えているものを以下に記す。

「君はどうしてもto not 〜をダメにしたいみたいだけど、OKな文はいくらでもある。例えば、He expected me to not go there. もう一度。He expected me to not go there.」注4

「君の素性のふり方がいくつかおかしい。例えば…。」

「君はSubjunctiveには時制があると言うんだけれど、やっぱりそう思いますか、野村君? 君はちゃんと根拠を挙げているんだけど、弱いと思う。確かに君が言う通り、Subjunctiveは複合名詞句制約に従う、Tensed S Conditionに従う、主語にNominativeが現れる、それでもどうですか、SubjunctiveにTenseはないとは思いませんか?注5 そう、SubjunctiveはFiniteではあると思う。その点からすると、例えばね、Tensed S Condition(時制文条件)は名前の付け方の問題でね、確かにFinite S Condition(定形文条件)って呼んだらいいかもしれない。注6

実はこの後、メガネを掛けた、白髪まじりの先生がコメントされた。筆者は「この方が神尾先生では?」ととっさに思ったが、やはり後からそうであることがわかった。

「私もざっと拝見しました。これからあなたがどこに行かれることになるかはわかりませんが、どこに行かれることになっても、研究者として十分きちんとやっていけると思います。英語もいくつか変てこりんなところがありましたが、非常にしっかりした英語でした。」

そうすると他のある先生が、「どうしてこれ青山でBなんでしょうねえ? しかも長谷川先生、青山はAの上に更にAAがあるんですよ」と言われた。すると、長谷川先生が、「えっ、これBなの? そんなことはない、これは東大でも立派にAだよ」と言って下さった。上記の神尾先生のコメントと長谷川先生のこのフォローは非常に名誉な気持ちだった。博士課程浪人の1年間は辛かったが、この時は、「たとえ落ちても、これは本望だ。獨協を受験して良かった」と心から思った。文頭にも記したが、この時の気持ちは今も忘れていない。
 そして面接の最後に長谷川先生が、「それでね、これは聞きづらいことなんだけど、やっぱり聞いておかなきゃいけないのだが、受かったら獨協に来る意志はありますか?」と聞いていらっしゃった。筆者は「うそをつくのは嫌なので(笑いが起きる)正直に申しますと、青山に修士以来の義理やしがらみもありますので、青山に受かったら、青山に行くつもりでおります」と正直に申し上げた。(笑いが起きてよかった。)
 知り合いはみんな「ウソをつけばよかったのに」と言った。合格発表は青山より先だったのだが、合格していた。非常に嬉しかった。とにかく、高校受験からずっとあった「受験」が終わったんだ、もう受けなくていいんだ、という気持ちでいっぱいだった。(後略)



(注1)先生は1963年から長年に亙ってTECの「理論言語学講座」の授業を担当されていたが、自分が習ったのは先生の最後の「生成文法特論」(1998年、テキストはCulicover 1997)と最後の「生成文法入門」(1999年)であった。同じく翌年、上智大学名誉教授の梶田優先生(1938-)の最後の「生成文法入門」(2000年)も受講することができたのだが(それ以降は梶田先生は「生成文法特論」しか担当されなくなったと思う)、両先生の最後の「生成文法入門」を学べたことは有益なことであった。
 なお、長谷川先生と最後にお目に掛かったのも2007年のTEC(東京言語研究所)「夏期特別講座」であったが、それが最後のTEC担当の授業であったと思う。

(注2)先生のご葬儀(家族葬)後、喪主の専修大学教授長谷川宏先生(1960-)より「野村さんが書いてくださった書評(=野村 (2023b) のこと)がとてもよかったので、誠に勝手ながらプリントアウトしてお棺に入れさせていただきました」というメールを頂戴し、有難いことであった。また、中澤和夫先生(1954-)にも後述、獨協大学大学院受験の思い出をお知らせした際、「何とも胸が詰まる文章です、野村くんの文章は。…就中、野村くんの名著解題を棺に入れられたという件り、これに優る学恩はありや、と思いました」と言って頂いた。
 なお、その際、長谷川宏先生にお送り頂いた、(結局、葬儀の席上で読む機会を逸したという)喪主挨拶も感慨深いものがあった。

(注3)その他、長谷川先生の2005年までの経歴、研究業績(の適切な紹介)、業績一覧については今西編集代表 (2005: 447-453) が参考になる。

(注4)先生のto not語順のコメントがその後の野村・Smith (2007)、野村 (2019) 執筆の動機の一つとなった。

(注5)例えば、Chiba (1987) やNomura (2006) は「仮定法現在節には時制がある」と主張している。それに対して、Murakami (1992、及び以降の一連の研究) やChiba (1994) は「仮定法現在節にはAgr(一致要素)はあるがTense(時制)はない」と主張している。

(注6)先生は昔、2ページの『英語青年』の論文で(長谷川 1963)、咀嚼して言うと「英語のPresent Subjunctive(現在仮定法)はTns(Aux) が削除変形された結果、原形が生じている」という主張をなさっていた。Culicover (1971) の命令文、仮定法の博士論文に先んじているのだが、当時の枠組みに基づいた卓見だと思う。

(注7)最後に余談だが、長谷川先生も1999年に恩師の中島文雄先生(1904-1999)の業績紹介、追悼文を書かれている。その中で「自説と違う論文を評価することの重要性」について記しておられるのだが、「言うは易し、行うは難し」の、しかし、研究指導、査読において大切な視点だと思う。

(i) 私事にわたるが、私は学部の卒業論文も修士論文も、先生のおきらいな(と思われた)Saussureの考えや、アメリカ構造主義言語学の手法を取り入れて書いたので、叱られるのではないかと冷や冷やしながら提出したのだが、認めてくださったのでほっとしたのを覚えている。とかく独自の理論をもつ優れた学者は、弟子に自説を押しつける傾向があることは、内外の学界風景を見ても一目瞭然であるが、先生の寛容の精神は先生の真のリベラリズムのおのずからなる発露であると思われる。これは、社会主義国家においてこそ真のリベラリズムが開花するはずであると私などが若い頃に誤解していた「社会主義国家」の非寛容とは全く対照的なものであった。
 この寛容の精神は私たちがしっかりと受け継いでいきたいと思う。現に私も大学院生を指導するときには先生を見習って、意識的に自説と違う考えを認めるよう努力している。こうして先生の問題提起とその実践も、先生の寛容の精神も、脈々と弟子たちに受け継がれ、さらには次世代の研究者をも導いてくださるものだと信じている。

(長谷川 1999: 232)

参考文献

Chiba, Shuji (1987) Present Subjunctives in Present-Day English. Tokyo: Shinozaki Shorin.

Chiba, Shuji (1994) “Tensed or Not Tensed: INFL in Present Subjunctives.” In Shuji Chiba et al. (eds.) Synchronic and Diachronic Approaches to Language: A Festschrift for Toshio Nakao on the Occasion of His Sixtieth Birthday, 327-343. Tokyo: Liber Press.

Chomsky, Noam (1986) Barriers. Cambridge, MA.: MIT Press. 外池滋生・大石正幸監訳 (1994)『障壁理論』東京:研究社.

Chomsky, Noam (1995) The Minimalist Program. Cambridge, MA.: MIT Press. 外池滋生・大石正幸監訳 (1998)『ミニマリスト・プログラム』東京:翔泳社.

Chomsky, Noam (2023) “The Miracle Creed and SMT.” Ms., University of Arizona and MIT.

Culicover, Peter W. (1971) Syntactic and Semantic Investigations. Doctoral dissertation, MIT.

Culicover, Peter W. (1997) Principles and Parameters: An Introduction to Syntactic Theory. Oxford: Oxford University Press.

Emonds, Joseph (1970) Root and Structure Preserving Transformations. Doctoral dissertation, MIT.

長谷川欣佑 (1963)「‘Subjunctive’の否定」『英語青年』第109巻10号、609.

長谷川欣佑 (1974a)「Generalized A-over-A Principle (1)-(2)」『英語青年』第119巻11号: 736-737、12号: 808-810.

長谷川欣佑 (1974b)「変形適用における『複雑度』」『英語青年』第120巻1号: 17-20.

長谷川欣佑 (1983)「文法の枠組―統語理論の諸問題 (1)-(4)」『言語』第12巻5号-10号.

長谷川欣佑 (1986)「境界理論としてのBarriers批判」『言語』第15巻12号、84-94.

長谷川欣佑 (1999)「中島文雄先生の業績」『英語青年』第146巻4号(中島文雄氏追悼号)232.

長谷川欣佑 (2003)『生成文法の方法―英語統語論のしくみ』東京:研究社.

長谷川欣佑 (2014)『言語理論の経験的基盤』東京:開拓社.

池上嘉彦 (2023)「長谷川欣佑さんと一緒だった頃」東京言語研究所.https://www.tokyo-gengo.gr.jp/pdf/mourning_Hasegawa_Ikegami.pdf

今西典子編集代表 (2005)『言語研究の宇宙―長谷川欣佑先生古稀記念論文集』東京:開拓社.

McCawley, James D. (1999) The Syntactic Phenomena of English. Chicago: University of Chicago Press.

Murakami, Madoka (1992) “From INFL Features to V Movement: The Subjunctive in English.” MA thesis, University of Hawai‘i at Manoa.

中島平三 (1990)「[資料・日本の英語学25年]生成文法」『言語』第19巻11号、60-63.

Nomura, Tadao (2006) ModalP and Subjunctive Present. Tokyo: Hituzi Syobo.

野村忠央 (2019)「語順が表す含意(1)―不定詞節における否定語順について」野村忠央・女鹿喜治・鴇﨑敏彦・川﨑修一・奥井 裕編 (2019)『学問的知見を英語教育に活かす―理論と実践』184-196. 東京:金星堂.

野村忠央 (2023a)【追悼文】「高見先生との四半世紀の思い出」『学習院大学英文学会誌 高見健一教授 荒木純子教授 追悼号 2022』18-21. https://researchmap.jp/read0060497/misc/41818539に再録

野村忠央 (2023b)【名著解題】「長谷川欣佑 (2003)『生成文法の方法 英語統語論のしくみ』」「長谷川欣佑 (2014)『言語理論の経験的基盤』開拓社」遊佐典昭・小泉政利・野村忠央・増冨和浩編『言語理論・言語獲得理論から見たキータームと名著解題』190-195. 東京:開拓社.

野村忠央・Donald L. Smith (2007)「〈to not do〉語順再考」『英語青年』153巻6号、368-371.

大津由紀雄 (2023)「東京言語研究所での長谷川欣佑先生」東京言語研究所. https://www.tokyo-gengo.gr.jp/pdf/mourning_Hasegawa_Otsu2.pdf

Pesetsky, David (1994) Zero Syntax: Experiencers and Cascades. Cambridge, MA.: MIT Press.

Pollock, Jean-Yves (1989) “Verb Movement, Universal Grammar, and the Structure of IP.” Linguistic Inquiry 20: 365-424.

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第4回 言語学者の発音

 英語の初出単語を学ぶ際、発音、意味、用法をしっかり確認して暗記するのが重要であることは言うまでもない。注1 外池滋生先生(1947-)が昔、「一回、単語の発音を間違えて覚えたまま大御所になってしまうと、誰もそのことを指摘できなくなる。ある有名な先生がsouthernをサウザンと発音していたが誰もサザン [sʌ́ðərn] だとは言えなかった」という趣旨のことを言われていた。注2 私も大学2年生の会話の授業で何か野菜の話になって、カカンバーと発音したら通じず、それはキューカンバー(cucumber [kjúːkʌmbər])だと言われて大爆笑された。注3 恥ずかしい間違いだが、自分の頭の中の誤りの発音が訂正されて良かった。
 ということで、今回のテーマは「言語学者の発音」である。すなわち、固有名詞である人名や地名の発音はどの言語でも難しい訳だが、まずは「言語学者の名前をどう発音するか」の話をいくつか。谷美奈子先生(青山学院大学名誉教授)が同僚であったドナルド・スミス先生(Donald L. Smith, 1936-2022)に、変形文法初期の有名な研究者であるパールムッター(David Perlmutter, 1938-)の話題をしたが、誰のことか一向に通じない、「スミス先生が知らないはずがありませんよ」と話しているうちに、スミス先生が「ああ、パールマラのことか!」というやり取りがあったとのことである。(日本人はカタカナの「パールムッター」は「ムッ」を強く読むと思う。それに対し、原語の [pə́ːrlmʌtəːr] は前に強勢がある。)
 『意味と形』(1981) で有名なボリンジャー(Dwight Bolinger, 1907-1992)の発音は、中右 (1988: 26) によると「本人はボリンジャーという読みを好みとするが、ボリンガーと読まれることもある」とある一方、八幡 (1976: 59) はボリンジャーの名前(姓)の発音は家族間でも論争の種で、本人はバランジャー [báləndʒə]、息子はボラン(ガ)ア [bɔ́ləŋə]、伯父はボランジャー [bɔ́ləndʒə] と発音するとのことであった(カタカナは野村の表記)。
 また、草創期の社会言語学者ラボフ(William Labov, 1927-)も日本では我々は普段、ラボフと呼んでいるが、いつぞや、ラバブが原音に近い、aboveをアバブ [əbʌ́v] と読むのだから、Labovもその発音に [l] を加えたラバブ [ləbʌ́v] と読むのが正しいという、なるほどと思う記述を読んだ覚えがある(井出・重光 (1995: 196) に記された発音記号を見ると、二重母音だが、確かにそれに近い [ləbóʊv] という発音が記されている)。
 それから、副詞研究の古典の一つに『グリーンボーム英語副詞の用法』(1983) という書籍があるが、何かの研究発表でそれを引用していた発表者の方に対して、安藤貞雄先生(1927-2017)が質疑応答で開口一番、「あなた、発表中、グリーンボーム(Sidney Greenbaum, 1929-1996)って発音されてたけど、発音はグリーンバウム [gríːnbaʊm] 注4 ですよ!」とかなりきつい調子で言われていた。
 最後に、最近の生成文法の進化生物学的研究でしばしば名前が挙がる人にCedric Boeckxという研究者がいる。学会等ではボックス、ベックス、ブックスという発音が聞かれるが、長谷川宏先生(1960-)によると、「本」のブックスの発音が一番近いということだった。(ブックスとボックスは聞こえ方の問題かもしれない。)
 さておき、表題の「言語学者の発音」は二つの意味を掛けていて、次に「言語学者がする発音」について。上記、外池先生はwoman [wúmən] をウーマンではなくウォマンとアメリカ人ネイティブスピーカー的に発音される。また、Covert Movement(非顕在的移動=不可視の移動)をカバート [kʌ́vəːrt] ではなくコヴァート [kóuvəːrt] と発音されていた。そして、私が1990年代に院生だった頃、Pollock (1989) 以降、Chomsky (1995: Chapter 3) まで生成文法研究者が猫も杓子も仮定していた重要な統語範疇にAgrPあるいはAGRsP, AGRoPという統語節点があった。Agreement Phrase(一致要素句)の省略だが、ある系統の大学院生たちがアグルピーという発音をしていた。しかし、MITの在外研究からお戻りになった時期の外池先生は複数の大学の大学院生が参加している授業終わりに、「ところで、アグルピーと読んでる人がいるけど、アグラー [ǽgrə] あるいはアガー [ǽgə] と読むのが正しい」と発音記号を板書し、教室を去って行かれた。
 今井邦彦先生(1934-)に英語音声学を習ったことがある人はイントネーションの話で必ず以下の (1a, b) の例文と、その表す意味は (2a, b) だという説明を耳にしていると思う。

lovely
(1) a. You have

    e

     yes.

b.

l

   o e
    v
  You have    e
      l   es.
       y  y  
 
(2) a. 貴女の目は綺麗だ。
b.
貴女は目こそ綺麗なんですがね。(「目はきれいだが、ほかの造作はひどい」という言外の意味が酌み取られる)
(今井 2007: 141-142参照)


この例文は昨今のジェンダーの社会状況からすると使いづらい例文となったと思うが、注5 今井先生のポイントを要約すると「下降調は断定、上昇調は判断保留、上昇下降調、下降上昇調はその組み合わせ」(より正確には、下降調は通説では「言い切り」「断定・主張」とされているが、本当は「判断保留の不在」が正しい)ということだった思う。
 次に、TEC(東京言語研究所の理論言語学講座)で「生成文法入門」「生成文法特論」を習った先生方の専門用語の発音について。渡辺明先生(1964-)の授業中の発音を聞いて、「ぼくらは普段、Linguistic Inquiryをリングウィスティック・インクワイアリー [inkwáiəri] と読んでいるけど、本場ではリングウィスティック・インクウィリリー(<[ínkwəri])と読むのか」と思った。
 また、梶田優先生(1938-)はsyntactic operation(統語演算)をオパレーション [ɔpər éiʃən]、derivation(派生)をデラベーション [dèrəvéiʃən] など、シュワ(schwa)をア [ə] の音で発音されていたことが記憶に残っている。
 そして、長谷川欣佑先生(1935-2023)は照応現象(anaphor)(概略、伝統文法で言うところの、再帰代名詞、人称代名詞、了解済みの主語などの代用表現の諸現象)に詳しい方であったが、anaphorをアナファー [ǽnəfər] ではなくアナフォー [ǽnəfɔːr] と発音され、nominative case(主格)をノミナティーブ・ケースと長く読まれていた。(metaphor(隠喩)もメタファー [métəfə] と読む人とメタフォー [métəfɔ̀r] と読む人がいると思う。また、expletive(虚辞=itやthereなどのこと)もエクスプリティブ [éksplətiv] と発音する人とイクスプリーティブ [iksplíːtv] と発音する人がいると思う。)
 最後に、2000年代以降のミニマリスト・プログラムの重要な概念として「位相」(phase)がある(Chomsky (2000, 2008) など参照)。注6 私は二重母音のphaseをカタカナで「フェーズ」と記すのは気持ちが悪く、「フェイズ」と記したい感がある。注7 しかし、長母音で記すことは、メーク(make)、フェース(face)、レート(rate)などのように外来語として定着した証拠なのかもしれない。いつぞや、千葉修司先生(1942-)が、「中島君(中島平三先生(1946-)のこと)やぼくはメール(e-mail)が出始めた時からずっとメイルと書いていたが、さすがに今はやめてしまった。しかし、中島君は今でもメイルと書かれている」という趣旨のことを言われて、確かに中島先生はそうだと思った記憶がある。注8



(注1)今の学生は(成人した我が家の子供たちも含め)発音記号を知らない人が多い実感がある。電子辞書やネット上の音声を含め、いろいろな媒体で実際の単語の音声が聞けるから発音記号は不要だという向きもあるであろうが、発音記号と実際の発音から記憶を定着させることが間違いなく有益であると思う。特に英語教職履修者はそうあって欲しい。生徒や学生はhot [hɑt / hɔt], hat [hæt], hut [hʌt] の「ア」の音が違うことを発音記号が異なることで初めて気付く人も少なくないと思う。私は曖昧母音の [ə](schwa)の音は英語音声学を学んで初めて正確に発音できるようになったと思う。

(注2)我々の世代以降の日本人は1970年代後半以降のサザンオールスターズの活躍でsouthernの発音は間違えなくなったのではないだろうか。

(注3)日本人、英語母語話者に限らず、先生には当たり外れがあるが、この「英語 上級 オーラル 英2B」の授業を担当されていたリンダ・ディビズ(Linda Davies)先生という方はカナダ人で弁護士の資格もある方だったが、良い先生だった。それで、同じクラスの女子学生が何か植物の話でハーブの話を出したのだが、友人のぼくらも含めていくらherb [həːrb] という正しい発音をしても通じず、先生に綴りを知らせると、ああ、それはアーブ [əːrb] と発音するんだよ、ということだった。フランス語が公用語でもあるカナダはhourとかhonestのみならず、herbなどでも [h] 音を黙字にするんだなと思った覚えがある。

(注4)今回、初めて調べてなるほどと思ったのだが、その発音記号を含め『英語学人名辞典』(1995) のGreenbaumの項を書かれていたのは安藤先生ご自身だとわかった。
 しかし、この二重母音と長母音の話、結構、難しい、すなわち、歴史的、方言的にどちらもあり得ると思う。昔、青学の英語史を聴講していた時、ウィルキンソン先生(Hugh E. Wilkinson, 1926-)がOE(古英語)のhām [hɑːm] (ハーム)、PE(現代英語)のhome [houm] (ホウム)、ドイツ語のHeim [haim] (ハイム)(家)は同じ語源、また、OEのbēam(ベーアム)、PEのbeam [biːm] (ビーム)(梁、けた、光線)、ドイツ語のBaum [baum] (バウム)(木)は同じ語源だと言われていた(この話、Wilkinson (1977: 25) の“Pronunciation and Spelling”の章の解説だったと思う)。ちなみに、Baumkuchen (バームクーヘン)<Baum (木)+Kuchen (ケーキ:英語のcakeと同語源) である。また、故エリザベス女王(Queen Elizabeth II, 1926-2022)はhomeを [həum] (ハウム) と発音されていた。

(注5)実際、そのせいかどうかはわからないが、今井 (2007) より最近の今井 (2019: 132-133) ではYou have a lovely voice.の例文が使われている。(この文を下降上昇調で読むと、オーディション等で審査員が「声はきれいだが、音痴だ」などの意図を表す例文として使用可能である。)そのようなことを気にしないでいい例文としては、同書にある以下の例が無難であろうか。    
(i)
He doesn’t lend his books to anybody.
(ii) a. 下降調→彼は誰にも本を貸さない。
b. 下降上昇調→彼は本を貸さない訳ではないが、人を選んで貸す。
   
(今井 2007: 142、2019: 133参照)

(注6)概略、「統語演算の単位」のことで、通説では (i)「命題」を成すか(意味論)、(ii) 音韻的な独立性があるか(音韻論)、(iii) 解釈不可能素性がその先端に付与されるか(統語論)などの観点からCP(補文標識句)とv*P(他動詞の軽動詞句)がそれに相当するとされるが、1970年代の循環節点(cyclic node)とも類似性があり、位相にDP(名詞句)が含まれるかどうか議論が続いている。

(注7)同じ単語(phase)なのだが、昔から外来語として存在する「次のフェーズに入った」とは違う感じがするんだと思う。ガラスとグラス(glass)、ミシンとマシン(machine)、インキとインク(ink)、ストライキとストライク(strike)みたいなものだろうか。

(注8)最後に、混乱していると思われたら嫌なので、書いておいた方がいいだろうか。私は普段、発音記号を簡易表記(broad transcription)(例:[i], [u])で記すが、引用については、原表記に従い、精密表記(narrow transcription)(例:[ɪ], [ʊ])を用いている。確かに、例えば、短母音 [ɪ], [ʊ] と長母音 [iː], [uː] は単なる長さではなく、音質が違うことは事実である。しかし、教育上は(昨今は精密表記が流行りのような気がするのだが)簡易表記の方が中高生や大学生には簡便でわかりやすいと思う。
 青学定年最後の年で習う機会がほとんどなかったのだが、牧野勤先生(1930-)はこの問題にお詳しい方であったと記憶している(牧野 (1977) も参照のこと)。


参考文献

安藤貞雄 (1995)「Greenbaum, Sidney」佐々木達・木原研三編『英語学人名辞典』117-118. 東京:研究社.

Bolinger, Dwight (1977) Meaning and Form. London: Longman. 中右 実訳 (1981)『意味と形』東京:こびあん書房.

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Greenbaum, Sidney (1969) Studies in English Adverbial Usage. London: Longman. 郡司利男・鈴木英一監訳 (1983)『グリーンボーム英語副詞の用法』東京:研究社.

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今井邦彦 (2007)『ファンダメンタル音声学』東京:ひつじ書房.

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牧野 勤 (1977)『英語の発音―指導と学習』(東書TMシリーズ)東京:東京書籍.

中右 実 (1988)「D・ボリンジャー」『言語』17巻6号「特集:世界の言語学者たち―学界の旗手27人の最新動向」26-27.

Perlmutter, David M. (1971) Deep and Surface Constraints in Syntax. New York: Holt, Rinehart and Winston.

Pollock, Jean-Yves (1989) “Verb Movement, Universal Grammar, and the Structure of IP.” Linguistic Inquiry 20: 365-424.

Wilkinson, Hugh E.、木村建夫解注 (1977)『英語史入門―The How and Why of English』東京:研究社.

八幡成人 (1981)「Dwight L. Bolinger―思想と業績」『研修』第14号、59-76. 島根県立平田高等学校.

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第3回 (to)不定詞、原形、語幹、語根

 このたびの能登半島地震により亡くなられた方々に謹んでお悔やみ申し上げますとともに、被災された方々、そのご家族及び関係のみなさまに心よりお見舞い申し上げます。みなさまの安全と、一日も早く平穏な日常が戻りますことを心よりお祈り申し上げます。



 英語学概論に類する授業を教え始めると、自分の以外の専門分野の授業で頭が混乱することはどの人にも経験あることだと思う。例えば、筆者は三十代の時、音韻論の逆行同化(regressive assimilation)(例:have to [hæv tə] → [hæf tə])注1と進行同化(progressive assimilation)(例:happen [hæpn] → [hæpm])や、形態論の語基、語幹、話根などがこんがらがった。以下は後者についての中島 (20112) のわかりやすい説明である。注2

(1) 語基(base)とよく似た用語に語幹(stem)と語根(root)と呼ばれるものがある。語基は屈折や派生の基になる語のことを指すのに対して、語幹は屈折の基になる形態素のことを、語根は接辞が一切付いていない形態素のことを指す。teachは語根でもあり、teachesなど屈折形およびteacherなど派生語の語基でもある。teacherは(すでに接尾辞が付いているので)語根ではないが、teachersという屈折形の語基であり、語幹でもある。teacherはまた、派生語teacherly(教師らしい)の語基であるが、この場合、屈折形の基になっているわけではないので、語幹とは言わない。(中島 20112: 67-68)

このことを念頭に置いて頂いた上で、生徒や学生、英語の先生を含め、多くの人が「不定詞、to不定詞、原形、更に語幹、語根」を同じものだとみなしているが、本来は別物であるという話である。
 一言で言えば、多くの人はこれら全てを裸形(bare form)と同様の意味で用いていると思われる。確かに、現代英語(PE)だけで考えればそれほど障害はないようにも思われる。例えば、下記(3)に示す通り、不定詞(infinitive)は定形(finite form)の反意語たる非定形(non-finite form)の一種である訳だが ((2-4)参照、詳しい議論は野村 (2015, 2019, 2020) 参照)、正確に言えば、たまたま不定詞(だけ)は原形(root form)と同形だということである

(2)a.非定形:人称、数、時制、法によって動詞の形態が定まらない(形)
b.非定形の下位区分:不定詞、動名詞、分詞
(3)a.It is difficult for me to answer the question.
b.*It is difficult for him to answers the question.(主語が3人称でも-sが付かない)
(4)a.She seems to be an actress.
b.*She seems to was an actress when she was young.(不定詞の表す意味が過去時制であってもwasにならない)
((2-4): 野村 2020: 104参照)

しかし、同じ非定形の動名詞singingや分詞singingが原形singと同じものだとは思わないであろう。つまり、原形sing+動名詞あるいは分詞語尾-ingがsingingと考えるはずである。同じことで、原形=裸形singにゼロの(不定詞)語尾φが付いたものが不定詞sing+φだということである。
 ここで古英語 (OE) (450-1100) のsing(にあたる語)の形態を考えると納得頂けるだろうか。

(5)a.不定詞はsingan(本来は名詞性を表す対格語尾)
b.to不定詞はto singenne(本来、toは「方向を表す前置詞」、-enneは与格語尾)

すなわち、不定詞にも語尾があったということである。現代英語だけを見ていると、「singanのsingの部分が不定詞なのでは?」と思うかもしれないが、そうではなく、「singanのsingの部分を((1)の用語を使うと)語幹(stem)と呼ぶ」のである。すぐ思い付く疑問は「語幹は語根(root)(原形もroot formの訳であることに注意)と同じものなのか?」ということである。OEの段階を見れば、yesと言って良いと思う。しかし、印欧語のより古い形態を観察するとnoだと言うべきである。PEのbearにあたるサンスクリット語bhṛ-の直説法能動現在単数形を見てみよう。

(6) 1人称 bharā -mi 2人称 bhara-si 3人称 bhara-ti
(Mayrhofer (1953)、下宮訳 (2021: 40) 参照)
(7) 動詞の語構造=語幹 (stem)+屈折語尾(inflectional ending)

一般的に動詞の語構造が(7)と考えられることは周知のことである。(6)のmi,si,tiが(7)の屈折語尾であることは問題ないと思うが、その前の語幹の部分がāとaで微妙に異なる。より正確に言うと、その部分が語幹形成語尾、そして、それを抜かした部分が語根だということである。(8)参照。

(8) 語幹 (stem)=語根 (root)+語幹形成語尾 (stem ending)

しかし、現代語では語幹形成語尾と屈折語尾は当然、区別できない。注3 英語はOEの段階でさえも区別できなかった。(6)同様、PEのbearにあたるOE beranの直説法現在単数形を見てみよう。

(9) 1人称 ber-e 2人称 bir-st 3人称 bir-eþ

すなわち、-e,-st,-eþにおいて語幹形成語尾と屈折語尾の区別は難しいということである。注4
 まとめると以下のようになる。

(10)a.原形=裸形は何も付かない形
b.不定詞は法助動詞や不定詞標識toに後続する形だが、ゼロ語尾φがある
c.現代英語だけを見れば、動詞の語幹=語根と考えて良いが、歴史的に考えると、原形にあたるのは語幹

そうすると、原形不定詞(root infinitive)という呼び方はある種、矛盾があることに気付くと思われるが、筆者も研究や教育の場面も含め、極めて普通に使ってしまっている。また、PEだけを見れば、(10a)=(10b)=(10c)と言っても差し支えないであろう。しかし、英語教員や研究者は(10a-c)の本来の意味も併せて知っておいて欲しいというのが本稿の結論である。そうすれば、「命令文(命令法)は原形とは違うのか?」「仮定法現在は原形とは違うのか?」などの疑問を考えるきっかけとなるであろう。注5



(注1)英語は逆行同化の例の方が多いと思われるが、用語としては安藤・澤田 (2001: 51-52) などが用いている予期同化(anticipatory assimilation)という用語の方が日本人にはわかりやすいかもしれない。

(注2)余談だが、中島 (1995) の初版教科書が中島 (20112) に改訂される際、出版社から再校ゲラの段階で本書全体を読み直して気付いた点を連絡して欲しいと言われ、本文も教授用資料も全ページにわたってチェックしたのは大変な作業であった。日本英文学会全国大会に向かう飛行機の中でもゲラ校正をしていた記憶がある。後日、伺ったところ、著者の中島平三先生(1946-)ご自身はその依頼をご存知なかったということであったが、改訂版2刷以降の「はしがき」の謝辞で言及して頂いた。いずれにせよ、本書はコンパクトな、しかし、必要十分な情報は記されている英語学概論の教科書として21世紀も残っていくものと思われる。
 なお、初版中島 (1995: 122) の「意味論」の章ではプロトタイプ意味論の説明で鳥のスキーマの解説や、犬のスキーマに属する様々な犬の絵(ダックスフント、グレイハウンド、プードル)があって、筆者はそれを残して欲しいと思ったのだが、改訂版の中島 (20112) の章ではそれらがなくなってしまって残念に思った。

(注3)屈折語尾の内部でさえも区別できない。例えば、現代ドイツ語の
(i)WennicheinVogelwäre,würdeichzudirfliegen.
IfIabirdwerewouldItoyoufly
'If I were a bird, I would fly to you.'
のwäreでは、ウムラウト (¨) 部分が仮定法 (接続法II式)、warの部分が過去形、-eが1人称単数語尾と分析できるが、こういうことは稀であり、現代英語のShe loves me.の-sのどこが3人称で、どこが単数で、どこが直説法なのかを分けることはとてもできない。

(注4)敢えて言えば、-e,-eþのeの部分が語幹形成語尾の名残、-st,-eþのst,þの部分が人称語尾に近いとは言える。同じゲルマン語派のゴート語(4世紀)などを参照のこと。なお、ber-eやbir-stに見られるように母音変化も重要な点なのだが (語幹形成母音)、話が複雑になるので割愛する。

(注5)筆者自身も詳述する余裕はないが、「仮定法現在(命令的仮定法)の動詞の前には不可視の仮定法法助動詞Mφが存在しているので、後続する動詞は文字通り原形」だと考えている (Nomura (2005)、野村 (2015) など参照のこと)。渡辺 (1989) や村上 (2023) も「仮定法原形」という用語を用いている。つまり、理論をどう捉えるかということによる。
 また、認知言語学、認知意味論の類像性(iconicity)の概念に基づけば、「原形の裸のラベルが持つ命令的な気持ち」を命令文や仮定法現在にも持たせることと思う。筆者はそのような英語教育を否定するものではない。しかし、その場合であっても、英語教員は本来の用語の意味も知っておいた方が良いということである。例えば、下記『英語教育』のQuestion Boxコーナーの記述は本来の意味に基づいて回答されているものである。

(i) Q.(前略)suggestの後にくる主語+動詞の文では、その動詞は原形であるはずですが、そうはなっていません。(後略)

Ans.(前略)最後に注記をしておきます。「原形」(root-form) は、suggested,suggesting,suggestsなどとともに変化形のひとつとしてみた場合(これをパラダイムと言います)の名称です。文中での動詞の形を言う場合は、定形、非定形、直説法 (現在形、過去形など)、仮定法 (現在形、過去形など)、命令法などの名称を使うのが普通です。この言い方からすれば、質問者の引用した文中の動詞takesは「直説法現在形」ということになります。そして、「原形」と言っておられるのは「仮定法現在形」ということになります
(八木 2003: 72、下線筆者)

参考文献

安藤貞雄・澤田治美 (2001)『英語学入門』東京:開拓社.

Mayrhofer, Manfred (1953) Sanskrit-Grammatik mit Sprachvergleichenden Erlauterungen. Berlin: Sammlung Göschen. マンフレート・マイルホーファー、下宮忠雄訳 (2021)『サンスクリット語文法(改訂版)—序説、文法、テキスト訳注、語彙』東京:文芸社.

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中島平三 (1995)『ファンダメンタル英語学』東京:ひつじ書房.

中島平三 (20112)『ファンダメンタル英語学 改訂版』東京:ひつじ書房.

Nomura, Tadao (2006) ModalP and Subjunctive Present. Tokyo: Hituzi Syobo.

野村忠央 (2015)「bewareの用法及び活用体系に基づく定形性の概念について」江頭浩樹・北原久嗣・中澤和夫・野村忠央・大石正幸・西前明・鈴木泉子編『より良き代案を絶えず求めて』310-321. 東京:開拓社.

野村忠央 (2019)「混乱の多い英語学の専門用語、知っておくべき英語学の専門用語(1)」野村忠央・女鹿喜治・鴇﨑敏彦・川﨑修一・奥井 裕編『学問的知見を英語教育に活かす—理論と実践』145-162. 東京:金星堂.

野村忠央 (2020)「定形性」渋谷他編 (2020) 104-105.

渋谷和郎・野村忠央・女鹿喜治・土居峻編 (2020)『今さら聞けない英語学・英語教育学・英米文学』東京:DTP出版.

渡辺登士 (1989)『英語の語法研究・十章—実例に基づく英語語法の実証的観察』東京:大修館書店.

八木克正 (2003)「suggest that...のthat節の動詞」『英語教育』11月号、72.

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第2回 ラズニックとチョムスキー

 生成文法を牽引してきたチョムスキー(Noam Chomsky, 1928-)とラズニック(Howard Lasnik, 1945)は理論や経験事実を修正する上において良い関係だと思うという話である。ちなみに、筆者は海外の研究者と交流があるタイプの研究者ではないので、二人の学者の人柄などは存じ上げない。
 さておき、『統語論キーターム事典』(2016) のラズニックの項を見ると、以下のように書いてある。

(1) Lasnik, Howard(ハワード・ラズニック)(1945年生まれ)

アメリカ人言語学者ハワード・ラズニック(Howard Lasnik)は1967年に数学と英語の学士号をカーネギー工科大学で取得し、1969年に英語修士号(MA in English)をハーバード大学で取得した。また、1972年に博士論文Analysis of English Negation(英語の否定の分析)で博士号をMITで取得した。1972年から2002年まで30年間、コネチカット大学で教鞭を執り、2002年からは特別教授としてメリーランド大学で教鞭を執っている。
 ラズニックは著作が多く、拡大標準理論から統率・束縛理論やミニマリスト・プログラム(Minimalist Program)まで、変形生成文法の発展と理論化において重要な役割を果たした。彼は1977年の‘Filters and control’(フィルターと制御)のような重要な論文をノーム・チョムスキー(Noam Chomsky)と共同執筆している。

(Luraghi and Parodi 2008: 245, 外池監訳 2016: 310)

 1960年代後半から1970年代半ばまで、生成文法に御家騒動があったのは有名な話である。すなわち、「解釈意味論」(interpretive semantics)と「生成意味論」(generative semantics)の言語学戦争である(今井 (2001) など参照)。ミニマリスト・プログラム(Minimalist Program, MP)を含めた現在の生成文法理論が解釈意味論の子孫であることは言うまでもないが、日本でも当時、意外に生成意味論に期待する声は大きかったのではないかと想像する(筆者は1972年生まれなので実感はない)。当時の有名な入門書である今井邦彦 (1975) 『変形文法のはなし』も実は生成意味論に基づいて書かれている。注1 また、外池滋生先生(1947-)も筆者が院生の頃、当時、日本国内で解釈意味論を支持していたのは長谷川欣佑先生(1935-2023)と斎藤興雄先生(1940-)ぐらいだったのではないかと言われていた。
 しかし、その外池先生は中央線の電車の車内でChomsky and Lasnik (1977) “Filters and Control”を読んでいた時、「これで生成文法は何かが変わると思った」という趣旨のことを言われていた。80年代以降から現在まで続く「原理と媒介変数のアプローチ」の萌芽である。注2 そして、次に続く80年代のGB理論のまとめと90年代以降のMPの萌芽がChomsky and Lasnik (1993) であることは言うを俟たない。
 また、チョムスキーは長年、ECM(例外的格付与)を主張し、Postal (1974) の「目的語位置への繰り上げ」(Raising-to-Object, RO)の考えを認めなかったが、注3 その事実の重要性を認め始めたのはLasnik and Saito (1991) の議論が契機だったと思う。
 そして、長谷川欣佑先生の授業でそのような話をしていて話題になったのはthere構文の話であった。MP初期にチョムスキーが論じたthere構文の重要な例文として以下がある。

(2) There arrived three men (last night) without identifying themselves.
(Chomsky 1995: 274)

「3人の男たちが(昨夜、)名前も名乗らずにやって来た」ぐらいの意味であろうが、重要な点はthree menの3人称複数男性というφ素性がTの位置まで繰り上がるから、identifyingの前にあるPROをコントロールできて、themselvesの先行詞になれるということである。
 しかし、この例文を当時、スミス先生(Donald L. Smith, 1936-2022)注4 に見せた時、“Is Chomsky really a native speaker of English?”と言われたことが今も忘れられない。それで、スミス先生の話と軌を一にする話だと思うのだが、Lasnik (1999) は以下の(3)の例を挙げ、通常の他動詞の目的語の場合はそのようなコントロールはできないことを示した ((2)のarriveは非対格動詞と呼ばれ、主語は基底位置では目的語位置にあるとされる)。

(3) *I met three men (last night) without identifying themselves.    (Lasnik 1999: 187)

ラズニックは暗に(2)の問題点を指摘していたと思われる。
 最後に、付加詞の遅延併合(late insertion)の根拠とされる以下の有名な対比について、

(4) a. Which claim that John was asleep was he willing to discuss?
   b. Which claim that John made was he willing to discuss?

Chomsky and Lasnik (1993) では(4a)はJohn≠heと判断していたのだが、Lasnik (2003) は(4a)が非同一指示の解釈しか持たないという自分たちの判断は誤りであったと総括した(野村 (2023) 参照のこと)。
 筆者のイメージではラズニック先生はチョムスキー先生の高弟の中堅世代の学者というイメージがあるのだが、今回、このコラムを書いていて、日本で言えば喜寿のお祝いを過ぎていることに気付いた。Chomsky (2000) のMIが載っているラズニックの記念論文集Step by Stepから四半世紀近く経っているのだから当たり前と言えば当たり前のことなのだが。



(注1)高見健一先生(1952-2022)も今井 (1975) は「親文・子文」(=主節・従属節)のような面白さが随所にあった、とてもわかりやすい変形文法の教科書だったと言われていた。
 なお、今井 (1975: iv) のはしがきには「「解釈意味論」について詳しく知りたい人のための日本語で書かれた本としては、長谷川欣佑『生成文法の諸相』(ELEC、近刊) をお勧めする」とあるのだが、実際にはその書籍は刊行されていないので、Hasegawa (1972)、村木・斎藤 (1978)、長谷川 (2003) などを参照のこと。

(注2)福井 (2000: 784) は「生成意味論にかなりコミットしていたかのように見えた」夭折の天才言語学者原田信一(1947-1978)が「もうあと二、三年、原田さんが生きていてくれたら、生成文法理論における「抜本的な考え直し」(すなわち原理・パラメータモデル)の誕生を経験することができたであろう」と記している。

(注3)下記参照のこと。

(i) Chomskyは80年代以降、現在に至る原理と媒介変数(P&P)の理論において、Chomsky (1986a) でも述べているように、目的語位置などの統語構造は動詞が意味的に選択する限りにおいて存在するという前提に立ってきた。その意味ではθ役割が何も付与されないような(補文主語が繰り上がるための)目的語位置は存在してはいけないということになる。それがROを認めない大きな動機だったと思われるが、Postal (1974) から30年以上の時を経て、とうとうChomsky (2007, 2008) で(作用域や束縛の効果は結果として産み出す)「奇妙な目的のない操作」(strange and purposeless operation)としてROを認めた(Chomsky (2013) でも同趣旨の記述が見られる)。私見では、上記、S選択に基づく統語構造構築の位置付けが、Chomsky (2013, 2015) のラベル理論によって変化したと考える。いずれにせよ、今後もROは統語理論で重要に議論され続けていくものと思われる(Chomsky (2019) の議論など参照)。
(野村 2023: 105)

(注4)スミス先生は最初期に「日英語の鏡像関係」を論じた学者である (Smith (1978) 参照)。筆者が1990年代にお会いした頃は意味論や社会言語学により興味をお持ちだったが、何度も先生の鋭い言語直観に助けられた(例えば、野村 (2019) など参照)。
 長谷川(欣佑先生の)理論について議論していた時も、下記の(i)と(ii)の逆行束縛の例は長谷川理論にとって重要な例文なのだが((ia)は時制文条件(TSC)が発動してアウト)、

  (i)a.*These pictures of himself show [that Snoopy is an excellent pilot].
b.These pictures of himself show [Snoopy to be an excellent pilot].

スミス先生は最初、「これはどっちも悪いんじゃないか…」としばらく考えた後、「ああ、そうか、himより良いですね!」と言われたことをよく覚えている((iia, b)参照)。また、showよりproveの方が良いこと((ib)と(iib)の対比参照)、この写真をジョンが自分自身で撮っていないと(iib)は言えないことなど、興味深いコメントをいくつもして下さったことが思い出される。

  (ii)a.*This picture of him proves [that John is a football player].
b.This picture of himself proves [John to be a football player].
(注4の例文等、Nomura (2006: 246-247) 参照のこと)

参考文献

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Luraghi, Silvia and Claudia Parodi (2008) Key Terms in Syntax and Syntactic Theory. London: Continuum. シルヴィア・ルラギ、クラウディア・パロディ著、外池滋生監訳 (2016)『統語論キーターム事典』東京:開拓社.

村木正武・斎藤興雄 (1978)『意味論』(現代の英文法 第2巻)東京:研究社.

Nomura, Tadao (2006) ModalP and Subjunctive Present. Tokyo: Hituzi Syobo.

野村忠央 (2019)「語順が表す含意(1)—不定詞節における否定語順について」「語順が表す含意(2)—仮定法現在節における否定語順について」野村忠央・女鹿喜治・鴇﨑敏彦・川﨑修一・奥井 裕編『学問的知見を英語教育に活かす—理論と実践』184-211. 東京:金星堂.

野村忠央 (2023)「目的語位置への繰り上げと例外的格付与」「長谷川欣佑 (2014)『言語理論の経験的基盤』開拓社」遊佐典昭・小泉政利・野村忠央・増冨和浩編『言語理論・言語獲得理論から見たキータームと名著解題』104-105, 193-195. 東京:開拓社.

Postal, Paul M. (1974) On Raising: One Rule of English Grammar and Its Theoretical Implications. Cambridge, MA: MIT Press.

Smith, Donald L. (1978) “Mirror Images in Japanese and English.” Language 54: 78-122.

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第1回 Don't worry. I'm wearing!の笑いと英語の目的語の必要性

 

 先日(4月)、全国版ニュース番組で、お笑い芸人のとにかく明るい安村氏(1982-)がイギリスの人気オーディション番組Britain's Got Talentに出場し、会場を大いに沸かせたというエンタメニュースを目にした。筆者は以前、北海道教育大学旭川校に勤めていたが、安村さんは旭川実業高校野球部の卒業生で、以前、氷点下の旭川冬まつりの会場にパンツ1枚で旭川観光大使のたすきをつけてステージに上がっていたことが思い出される。芸人としていろいろ苦労されているであろうが、同じ道産子、日本人として世界での活躍を素直にうれしく思った次第である。
 さておき、彼のネタは日本でも流行っていたので説明するまでもないであろうが、体型を活かした「安心して下さい、履いていますよ」である。このネタを今回の英国オーディション番組では全編英語でやり通している(生徒にも大いに学ぶことがあると思われる)。

(1) 安村:I'm wearing pants. But I can pose naked.
   司会者:No, don't. / No, thank you.
   安村:No. 1; football player naked pose. Come on!
     (裸のように見えるサッカー選手のポーズを取る)Don't worry. I'm wearing!
   司会者:Pants!(会場笑い)
   安村:OK? OK, No. 2; horse racer naked pose. Come on!
     (裸のように見える騎手のポーズを取る)Don't worry. I'm wearing!
   司会者:Pants!(会場笑い)I love it. / He's a genius.

以下、同じことをNo. 3; James Bond naked pose(裸のように見える007のポーズ)、Finally, Spice Girls Wannabe naked pose(スパイス・ガールズの代表曲『ワナビー』)でも繰り広げる。
 ここで注目したいのは、彼がDon't worry. I'm wearing!と言った後、いずれも少し間を置いて、司会者の女性(採点者)たちがPants!と叫ぶことにより、一層会場が盛り上がっていることである。
 日本語であれば、一度、パンツが出てきている(あるいは見えている)状況で「安心して下さい、履いていますよ」は全く問題がない。しかし、英語は他動詞を目的語なしに用いることは原則、文法(統語論)が許さないのである。
 生徒はしばしば「前に出てきたものは省略できる」と勘違いしているが、少なくとも英語の省略においてそれは必要十分条件ではない。確かに以下の(2B)が示すように、日本語では主語の「私は」や目的語の「それ(=映画)を」が共に省略可能である。

(2) A: 昨日の映画、見た?
   B: うん、見た、見た。

しかし、英語では主語のIや目的語のitが旧情報(既知)であっても、省略はできない((3)参照)。

(3) A: Did you watch the movie last night?
   B: *Yes, φ watched φ.

英語としては目的語をitとして言語化しYes, I watched it.とするか、動詞句全体を削除して、支えの時制助動詞を残したYes, I did.としなければならない。生徒には日英語の大きな違いとしてこのことを意識させるべきである。つまり、今回のネタで言えば、「I'm wearingの後に何もない文は英語母語話者にとって気持ち悪い、目的語のパンツを補いたくなる」というのがポイントである。(日記文で主語Iが省略されること、I read (books).やHe eats (meals).などの潜在目的語は英語教育上はまずは特別な事例と考えた方がよい。)
 安村さんが「履いてますよ」を直訳して単にI'm wearing!としたのか、計算の上で目的語を言っていなかったのかはわからない。しかし、ベタではあるが、紅茶、サッカー、競馬、007、スパイスガールズなどイギリス人の心を掴む計算をしてネタに臨んでいた。
 今回のエピソードは大学の英語学概論等で、必要不可欠な「項」(=主語、目的語、補語、義務的な前置詞句)と随意的な「付加部」(=修飾語)の差異の認識でも有用だが、その他、中高生にとっても、「今、履いていること」は進行形のbe wearingを用いること、単純現在形のwearは習慣を表し、1回の動作の「履く」はput onを用いることなどが喚起できる。
 また、サッカー、パンツ(下着)はアメリカ英語ではsoccer, underwearを用い、イギリス英語ではfootball, pantsを用いることも同様である。筆者は高校生の頃、ケンブリッジ大学のアメリカ人学生がイギリス人学生に向かって、閉まってしまった大学の門によじ登って何とか中に入れたが、その際、ズボン(pants)が破れてしまったというエピソードを伝えると、But how could you tear your pants(パンツ)without tearing your trousers(ズボン)?と聞き返された長文を今でも覚えている。

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